固定概念を打ち破るデザイン思考:大手企業が都市部の子供の預け先不足を解消し、多様な働き方を支える育児支援プラットフォームを創出した実践事例
導入:都市に潜む「子供の預け先不足」という社会課題への新たな視点
現代の都市部において、共働き世帯の増加は社会全体に活力をもたらす一方で、深刻な社会課題も引き起こしています。その一つが、慢性的な子供の預け先不足、いわゆる待機児童問題の長期化です。これは単に保育施設の数が足りないという問題に留まらず、保護者の多様な働き方やライフスタイルに合致しない既存のサービスモデルに起因する側面も持ち合わせています。
これまで、この課題に対するアプローチは、主に行政による保育施設の増設や補助金制度の拡充が中心でした。しかし、用地の確保、保育士不足、運営コストといった従来の枠組みの中では、抜本的な解決には至らず、多くの保護者が「仕事と育児の両立」という壁に直面し続けています。このような状況下で、大手企業の新規事業開発担当マネージャーの方々は、既存のビジネスモデルや社会構造の中での革新の難しさを痛感されていることと推察いたします。私たちは今、固定概念を打ち破り、新たな価値を創造するデザイン思考を用いたアプローチによって、この社会課題にいかに挑むことができるのか、その可能性を探る必要があります。
プロジェクト概要と背景:なぜ「従来の解決策」では不十分だったのか
今回ご紹介するプロジェクトは、大手ITサービス企業A社が立ち上げた「地域共育プラットフォーム『Co育てLab』」です。A社はかねてより、従業員のワークライフバランス支援に注力していましたが、都市部に勤務する社員からも「急な残業時の預け先がない」「短時間だけ子供を預かってほしい時に選択肢が少ない」「習い事の送迎が難しい」といった声が多く寄せられていました。
従来の解決策、すなわち公的な認可保育園や民間の有料託児所は、基本的に長時間・定額利用が前提であり、保護者の細やかなニーズには対応しきれていませんでした。また、「子供の預け先は専門施設であるべき」という固定概念が強く、企業の遊休スペース活用や地域住民のスキル活用といった柔軟な発想が生まれにくい状況にありました。A社は、この「既存の選択肢ではカバーしきれない隙間」にこそ、デザイン思考を用いた新しいソリューションを創出する機会があると捉え、本プロジェクトを発足させました。
デザイン思考によるアプローチ:固定概念を打ち破るプロセス
「Co育てLab」プロジェクトでは、デザイン思考の各フェーズが緻密に適用され、従来の育児支援の枠組みを根底から見直すことになりました。
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共感(Empathize): まず、プロジェクトチームは徹底したユーザー理解に努めました。対象は、都市部で子育てを行う共働き世帯の保護者、地域で子育て支援に関わるNPO職員、そして潜在的に支援提供者となりうる地域住民です。数ヶ月にわたり、合計100名以上のユーザーインタビューを実施し、行動観察、ジャーニーマップ作成を通じて、彼らの喜び、悩み、潜在的なニーズを深く掘り下げました。 このフェーズで明らかになったのは、「預け先の確保」だけでなく、「子供が多様な経験をする機会の創出」「地域との繋がり」といった、より広範なニーズでした。特に、「急な依頼に対応してくれる柔軟性」と「身近で気軽に利用できる安心感」が強く求められていることが判明しました。
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定義(Define): 共感フェーズで得られた洞察に基づき、プロジェクトチームは課題を再定義しました。「都市部の子供の預け先不足」を「子育て世代が直面する『小さな困りごと』の集合体であり、地域資源の活用不足と情報流通の欠如によって生じる課題」と捉え直しました。そして、「誰もが安心して子供を預け、育てられる、地域と企業が連携した柔軟な育児支援エコシステムの構築」をプロジェクトの明確な目標としました。
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発想(Ideate): 定義された課題に対し、社内外から多様なバックグラウンドを持つメンバーを集め、ブレインストーミングやKJ法を用いてアイデアを創出しました。「預け先は必ずしも専門施設である必要はない」「企業の持つリソースを地域に開く」「地域住民の潜在的なスキルを可視化する」といった固定概念を打ち破る視点から、以下のような革新的なアイデアが生まれました。
- 企業の会議室や空きスペースを一時預かりの場として活用する「オフィス内キッズスペースシェアリング」。
- 地域住民の育児経験者や特定のスキル(語学、音楽など)を持つ人材を、時間単位で育児サポーターとしてマッチングする「地域スキルシェア型ベビーシッター」。
- デジタルプラットフォームを通じて、空き状況のリアルタイム表示、予約、決済を一元管理するシステム。 これらのアイデアは、従来の「保育園を増やす」という発想とは一線を画し、地域に眠る潜在的なリソースを最大限に活用することを目指しました。
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プロトタイプ(Prototype): 発想フェーズで生まれたアイデアの中から、実現可能性とインパクトの高いものを絞り込み、迅速にプロトタイプを開発しました。まずは社内向けに、テスト運用としてMVP(Minimum Viable Product)を構築。社内の空き会議室を活用した一時預かりサービスと、数名の社員を育児サポーターとして登録したマッチングシステムを導入しました。予約管理はシンプルなウェブアプリケーションで提供し、最小限の機能で検証を開始しました。
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テスト(Test): MVPの社内テスト運用では、利用者である社員からのフィードバックを綿密に収集しました。「予約システムの使いやすさ」「サポーターとのコミュニケーション」「安全性への懸念」など、多岐にわたる意見が集まりました。これらのフィードバックを基に、システムUIの改善、サポーター向けの研修プログラムの拡充、安全ガイドラインの策定といった改善を繰り返し実施しました。この反復的なプロセスにより、サービスの品質と信頼性が向上し、社内での評判が確立されていきました。
直面した課題と克服:ROIの証明と社内承認への道筋
プロジェクト推進中には、大手企業ならではの構造的な課題にも直面しました。
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社内抵抗と部門間の壁: 「育児支援は本業ではない」「安全性への責任問題」「新しい取り組みへの予算捻出の困難さ」といった社内からの抵抗は予想以上でした。特に、ROI(投資対効果)を短期的に証明することの難しさは大きな障壁となりました。 → 克服策: プロジェクトチームは、まず小規模な社内PoC(概念実証)を通じて、具体的な利用状況と利用者満足度を定量的に可視化しました。さらに、育児支援が従業員のエンゲージメント向上、離職率低下、優秀な人材の獲得といった「非財務的価値」に与える影響をシミュレーションし、中長期的な視点でのROIを提示しました。例えば、育児中の社員の離職が減ることで発生する採用コストや研修コストの削減効果を具体的な数値で示し、経営層への理解を深めました。
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リソース不足と予期せぬ制約: 新規事業であり、既存業務との兼務者が多かったため、リソースは常に限られていました。また、地域住民との連携においては、信頼関係構築に時間がかかるという予期せぬ制約もありました。 → 克服策: アジャイル開発手法を導入し、優先順位の高い機能から順次開発・リリースを行うことで、限られたリソースでも最大限の効果を目指しました。また、地域連携においては、既存の地域NPOとのパートナーシップを積極的に模索し、彼らの持つネットワークや知見を借りることで、信頼構築の時間を短縮し、運営体制を補強しました。これにより、初期投資を抑えつつ、質の高いサービス提供が可能となりました。
具体的な成果とインパクト:社会と事業への貢献
「Co育てLab」は、社内での成功を経て、地域へと展開されました。その結果、以下のような具体的な成果と社会的インパクトを生み出しています。
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定量的な成果:
- サービス開始から2年で、登録利用者数は延べ5,000世帯、年間利用件数は12,000件を突破しました。
- 利用者の「仕事と育児の両立に対する満足度」は、サービス利用後に平均で25%向上しました(アンケート調査に基づく)。
- 導入企業内では、育児中の女性社員の離職率が従来の平均から7%減少しました。これは、企業の採用・研修コスト削減に大きく貢献しています。
- 地域コミュニティにおける経済効果として、育児サポーターへの報酬支払いを通じて年間約3,000万円の地域内消費を創出しています。
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定性的なインパクト:
- 保護者からは、「急な病気や残業時も安心して預けられる場所ができた」「習い事の送迎を助けてもらい、子供の経験の幅が広がった」といった感謝の声が多数寄せられています。精神的なゆとりの創出に大きく貢献しています。
- 地域住民の育児サポーターにとっては、自身の経験やスキルを活かし、社会貢献と同時に収入を得る機会となり、高齢者の生きがい創出にも繋がっています。
- 企業にとっては、地域課題解決への貢献を通じて企業ブランドイメージが向上し、優秀な人材の獲得にも好影響を与えています。また、従業員のエンゲージメント向上による生産性向上も見られます。
社内への展開と学び:デザイン思考を既存組織に組み込むヒント
「Co育てLab」の成功事例は、A社内における新規事業開発のあり方に大きな影響を与えました。この経験から得られた、デザイン思考を大手企業や既存組織に導入・定着させるためのヒントを以下に示します。
- 「小さな成功」を積み重ねる: 最初から大規模なプロジェクトを目指すのではなく、MVPによる小規模なPoCで具体的な成果を出し、それを社内外に発信することで、徐々に理解と賛同者を増やしていくことが重要です。これにより、ROIの証明が困難な初期段階でも、プロジェクトを継続させる推進力が生まれます。
- 共感と顧客中心主義の徹底: 社内プロセスや既存のルールに囚われず、常に最終的なユーザー(顧客)の視点に立ち返る文化を醸成することです。ユーザーインタビューや行動観察を組織の標準的なプロセスに組み込み、社員が顧客の「声」と「行動」を直接肌で感じる機会を増やすことが効果的です。
- 部門横断型チームの構築と多様な視点の活用: 従来の組織構造の枠を超え、異なる部門やバックグラウンドを持つメンバーでプロジェクトチームを編成することで、多角的な視点からアイデアが生まれやすくなります。この多様性が、固定概念を打ち破るための重要な要素となります。
- 失敗を許容し、学びを活かす文化の醸成: プロトタイプとテストを繰り返すデザイン思考のプロセスでは、常に改善が必要です。失敗を「次への学び」と捉え、オープンに議論し、次なるアクションへと繋げる文化を育むことが、組織全体のイノベーション能力を高めます。
- 非財務的価値の可視化と評価基準の多様化: 短期的な財務リターンだけでなく、従業員エンゲージメント、ブランド価値、社会貢献度といった非財務的価値を明確な指標として設定し、評価プロセスに組み込むことで、社会課題解決型の新規事業が生まれやすくなります。
まとめ:常識を打ち破り、新たな未来を創造する
「Co育てLab」の事例は、都市部の子供の預け先不足という複雑な社会課題に対し、デザイン思考がいかに強力な解決策となり得るかを示しています。従来の「施設増設」という固定概念を打ち破り、「地域全体で子育てを支える」という新しいエコシステムを構築することで、企業は単なる事業成長に留まらない、持続可能な社会への貢献を実現しました。
大手企業の新規事業開発担当マネージャーの皆様におかれましても、貴社の持つリソースやアセットを、既存の事業領域に囚われずに社会課題解決へと転用する可能性を、デザイン思考を通じて模索されてはいかがでしょうか。共感から始まり、迅速なプロトタイピングと改善を繰り返すプロセスは、ROIの証明や社内承認といった障壁を乗り越え、限られたリソースの中でも革新的な成果を生み出す道筋を示してくれるはずです。常識破りのソリューションは、常にユーザーの真のニーズに寄り添うことから生まれます。